温泉世界

温泉に浸かるという事は、その湯の周辺の政治、経済、文化に渡る諸事象に触れるということである。
道後温泉天皇が発見したという伝説を持つ。別府の明礬温泉は戦国時代の大名の交易物が採取された。二日市温泉は、第二次大戦後引き上げの際に暴行を受けた女性たちを保護治療した歴史がある。ボーリング技術の発達により、逸話を持たぬ新興温泉が誕生し、古にさかのぼる歴史を持たなくとも、地域社会に影響を与えた施設も存在するのだ。
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人間個人として湯に浸かる行為は入浴、旅行、湯治の枠を出るものではない。しかしそれは、より高次の視点からは、紛れもない歴史事象探求の拠点そのものなのだ。なぜかといえば、それは快楽に突き動かされ歴史を描写してきた人類が追い求めた、地上に楽土を拓く行いの一つには違いないのだから。温泉街に色町が栄えたのも、理由があってのことだ。

人類の希求する健康長生の目的のため温泉は用いられる。体を清潔に保ち、芯から温め、長期間湯にあたりつづける湯治と、温泉入浴という行為は、人類が夢見る「不老不死」へのあがきそのものだ。それは決して、安逸なものではない。「楽土」にいるとき、人はそこから出る事を考えるだろうか。しかし、いつかは湯から出なければならない。「楽土」を手放し現世に帰る事で、人はまた新たに戦えるようになるのだ。なんのために戦うのか。この世に「楽土」を拓くためである。ではそれはなんのためか。偉大なる自己認識のためである。これはマスターベーションにより我が身と我が心を見つめる行為に似ている。色町での遊興とて、とどのつまりは自慰行為である。すなわち、湯が沸けば、人は自己認識に至る可能性を見出すのである。自分自身を把握する事こそ、「不老不死」へ至る道だと、人類は本能的に考えているのだ。

故に、入浴行為はどのような目的に適い、形態をとろうが哲学行為であり文学的精神の精練であると言える。その豊穣の泉は、価値を有する事を知る者にこそふさわしい。

さあ諸君。楽土を求め、より良い温泉を探しに旅立とうではないか。

芳しいご投稿ありがとうございました。
温泉にそこまで賭けられるとは、ある意味で幸せなことなのでしょう。
これは哲学と言うより新興宗教に近いというのが、私の実感です。
新興宗教が文学的たりえるかは、わかりません。

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