生贄

マンナンライフの不幸はおおきく二つ考えられる。


1.責任を押し付けあう時代に生きる企業であるということ。
社会にとっての価値をすでに喪失した老人と、まだ価値を持たない子供が死ぬ事で、
悲しむものは誰も居ない。遺族だって、自分達のマヌケさを嘆くだけだろう。
そんな無価値なものに、労力を費やす社会に、現在はなっている。
この国の未来を示す良い指標である。


2.岐阜県に工場を持っていないこと。
これについては全くその通りである。
消費者庁とかいうくだらない偽善者福田の悪癖の残り汁への犠牲に捧げられる役になったのは、
岐阜に工場を持っていないからである。
岐阜に工場を持ち、年老いた選挙民を温泉へ連れて行って酒を注いで来た野田氏のために
献金と投票を行っていればこのような事態にまでは至らなかった。
なにせ票がとれそうな企業へのアクセスは欠かさないと高名な野田氏である。
良いポジションを経ていないマンナンは、野田氏の野望の犠牲に捧げられるのだ。


つまりどれだけおいしい食品を世に送り出してきても、
不運であるという事が罪なのである。
罪があるなら、清められなければ為らない。
たとえそのために多くの失業者を生み出しても、
税収が減っても、
たとえ何を犠牲にしても罪は払われなければならない。
そして罪を清めるためには、マンナンは解散する必要がある。

私だってこんにゃく畑が大好きだ。
小さい頃から食べてきた。
だがもう時代は変わった。

マンナンが犠牲に捧げられても悪い事ばかりではない。
野田氏の大臣・新省庁を担う閣僚としての実績になれば、
彼女が首相の座に近づくことも全く考えられない事ではない。
彼女にどれだけの国民に対する功績があるかは知らないが、
遺された遺族のために数億の金を搾り上げることができれば英雄である。
大多数の食を犠牲にして、全く高貴な生まれではない野田氏が高貴な地位を得る事が可能になる。

崩れ行く日本が、新生国家として野田氏の強力な指導の下よみがえるのなら、
マンナンごとき一社が犠牲にされてもよいだろう。


という投稿がありました。
連続とは珍しい。
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