まあそこのあなた、聞いてくださいよ。
残業を過度に繰り広げると、生活全般にわたって逆転現象が起こります。
夢と現実の境がなくなるのです。昼夜逆転などとは深刻さが違います。
うんこの如くカレーを毛嫌いし、カレーの如くウンコを食する。
私の職場を例に挙げますと、大半の営業マンは病んでおります。

目は空ろで口は半開き、橋から絶え間なくよだれが垂れ彼らは一心不乱にデータでフォーマットされていない書類を書く。パソコンがあるのに何故か筆を取らねば成らない。この拷問に精神は病み、
時折デスクの一角から悲鳴にも似た絶叫があがり、やがてすすり泣きにかわると、各方面から嗚咽が漏れだす。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
なぜ、こんな職場にいるのか。
なぜ、ここから逃げ出せないのか。
なぜ、社長はこの瞬間にもゴルフをしているのか。しかも腕前ときたらシングルなのだ。
41歳で初の昇進、だが主任補佐の地位。主任などいやしないのに。
今日も七時半に出社し、夜の十二時に最終電車で帰る。
もはや皮膚の感覚も衰え、視力も衰え、情緒も衰えている。
息子はおれの顔を知らない。おれは息子の顔を思い出せない。
足が痛む。足の裏の皮がささくれ、ひび割れ、血が滲む。十分間の昼食時にのみ、
コッペパンを嚥下する時にのみ、かすかな痛みが蘇る。
だが今日も病院には行けない。時間も金もない。足はどす黒く変色し、神は白く煤けた。
なんのために生まれてきたのか、それはここで延々と書類を書くためなのである。

とりあえず、ここが一つの到達点で、
生きるために仕事をするのではなく、仕事をするために生きる身体になります。
大抵の人間はここで可憐な命を散らしてしまいますが、
稀にカレーとうんこを誤認するその精神が、さらにもう一周、正気と狂気の間を往復する事があります。

その人間こそ、完成された美しきサラリーマンなのです。
彼は思うでしょう。
書類を書き続ける事、今日は昨日よりも一秒速く、明日は今日よりも一秒速く、
これを「生産性の効率化」と偉い人は呼びますが、ゾロアスタリズムという言葉で著されれることもあります。
読んでその如く、超人化でございます。
もともと日本人にとって会社とは「道」であり、極めんとするものです。
突き詰めていけば、実に日本人的な行動様式で、
松尾芭蕉的な自然主義が潜んでおります。
ゾロアスタリズムにより、多くのものが犠牲にされます。
家庭、欲望、多様な自我・・・
しかしこれら極めて女性的な性質は、日々のゾロアスタリズムの実践の中でそぎ落とされていくのです。
結果、名刀の如く艶やかなる「私」が残るのです。この「私」とは「公」と必ず行動を共にします。
それが、日本の活力なのです。

近年、労働と残業と賃金と勝負について、議会と企業が議論を続けておりますが、これは無用の心配というもの。なぜなら、ゾロアスタリズムにはさまざまな要因が絡まっているからです。
一つにニートの問題がありますが、ニートが増えれば、彼らの分だけ、一般人の負担は増えます。
これは、更なる高みに達するチャンスであるといえます。
また、ゾロアスタリスト達が心のどこかで捨て切れていない、だらけきった生活は、ニート達が代わりに行ってくれるのです。
言わばこれは人身御供のシステムですが、ニートたちは望んでゾロアスタリズムをさらなる極地へ追い上げる糧となろうとしている。
かつてキリスト教は殉教者に不足しなかった。プロテスタントも。今はイスラムも。民主主義も。

これらカビの生えた古よりの教義に代わるのが、ゾロアスタリズムなのです。
そして、これは信仰心の薄い多神教徒である日本人にしか実践し得ない道です。
これは、互いの立場を認めた、相互尊重人間賛美を見据えた神々の詩であります。
ニートニートの役割を、リーマンはリーマンの役割を。
ただ、ひたすらに果たし行くだけ。

この止まった秩序の中では、格差の問題は、全くとるにたらない事になるのです。

うんこをカレーと取り違えたあの人は、今やうんこを食べ続ける事だけで生きております。
自ら生み出した活力を自ら取り込んで再度活力を生み出す。

ゾロアスタリズムの最も洗練された形は、人が「永久機関」そのものとなることです。

会社役員 29歳

JMPIF通信 「リバティの意味」より。